小さい頃からの私のマイストーリー。
始めからスムーズにいった方ではないからこそ
今できることを一生懸命やるだけ。
不得意なことは本当にできないので頼らせてもらいながら毎日を愉しんでおります。
これを読めば私もできるかも!挑戦できるかも!
と思えるはずなのでお時間ある時、読んでみてくださいね。
松尾憲子です。
これからスタジオに通ってみたいなという方にも、私のことを知っている方にも
私ってどんな人か知ってもらえたら安心していただけるかなと思い小さい頃からの私を綴りました。
お時間ある時に読んでいただけたら嬉しいです。
福岡市西区で育ちました。
まぁまぁの田舎で、「あなたの住んでる団地はドラクエの集落みたいだったよね」
と大人になってよく言われました。
小学校低学年の頃から地域の子たちを集めて
逆立ち教室やゴム飛び教室などすでに運動指導していたのを覚えています笑
3年生になるとスラムダンクを観てミニバスケクラブに入部
学年120人なのに90人くらいが入っていて
ほぼ学校と同じ状態という大所帯の中キャプテンしてました。
一輪車も乗れたし、持久走も常に一番と、その頃は私は運動神経が良いと思っていました。
しかし、よくよく考えると
私が優れていたのは、運動能力ではなく
見て真似るという能力で
上手い人の動きを見ると、動きの完コピができるという能力でした。
そして、だれが上手くてだれを見ればいいのかもわかってました。
修学旅行のスキーも、みんなが練習してる中
じーっと座って見ていて
『まだ練習しないの??』と言われても
『まだ』とずっと見て
急によしわかった!と滑り始めるという。。。
そこまで考えてはなかったけど
どうやって身体を使っているのかイメージしていたんだと思います。
あ、なので先生のモノマネも得意でしたよ笑
その能力に気付いたのはピラティス始めてからで
そうだと意識してからは何を学ぶにも見て学ぶというところに
集中していろいろなことがより深くわかるようになりました。
もともと人にはミラーニューロンというのが備わっていて
人をみて真似るということができるのですが
私は特に秀でて備わっているようです。
なのでピラティスしてても整体してても
生徒さんの身体を見るとどういう状態なのかがわかります。
話を戻してもう少し。。。
生き物好きはその頃からで
クラスではずっと生き物係、そして委員会活動は飼育委員でした。
家では金魚、カメ、カタツムリ、スズムシなど飼ったことありますが
本当は犬とか猫とかも飼いたかったんですよね。
一人暮らしして生き物好きがよみがえり
今では爬虫類やヘラクレスなどたくさん飼ってます。
得意な科目は図工、苦手な科目は数学。
夜、家では紙工作をしたりしてました。
おばあちゃんのうちで犬を飼ったのですが
ホームセンターから自転車で木の板を買ってきて
ノコギリで切って犬小屋を作りました。
小さい頃から0から1を生み出すということが好きだったようです。
生き物大好きで新しいものを生み出すのが好き、運動を教えてる
って小学生の頃と変わってない私です。
中学生に入り運動部に入るかと思いきや
ブラスバンド部に入部
仲良しの子たちがみんなブラスだったという理由で入り、クラリネットを担当しました。
めちゃくちゃ愉しかった記憶しかないけど
遠足の前日に練習休んでみんなで明日のお菓子を
買いに行ってバレて怒られたとか
部活の前、土曜日のお昼ご飯に大きなおにぎりをそれぞれに
作って持って行きおにぎり交換をしていたとか
粉のリプトンを大量に持って行き
ウォータークーラーで作って練習中に飲んでたり
セーラー服の前の三角の部分をピンで止めるというアレンジを
部の1年生みんなでやって釜谷族と言ってたり
(釜谷さんという子が始めたから笑)
ほんと、アホな思い出ばかりで演奏の思い出は特にない。。。
そんなものですね。
2年生の時から顧問の先生が変わり
ベムベラベロに似てたところから先生のことをベルと呼んでました笑
ひどい。。。
けど、その先生のおかげで銅賞しか取ったことなかった
私たちの学校は初めて銀賞をいただきました〜♡
中学の時の得意な科目は理科と美術と技術。
夏休みの自由研究では3年間金賞取りました。
1年生のときは動物の研究、2年生のときはハーブの研究、3年生のときは天気の研究。
夏休みの宿題は最後の3日くらいから
やり始めるもんで全くもって間に合わないのですが
自由研究だけは毎年かなりの時間をかけて大作を作っておりました。
夏休みは自由研究があるので愉しみなくらい笑
でも得意なことに全力で取り組み、知って伸ばしていく
ということを小さい頃から大事にしてもらい身にしてきたのは
大人になってからは本当に役に立ちました。
小さい頃ってお母さんお父さんはこの子の良いところを伸ばしてあげよう
ってみんな子育てしますよね。
大人になると苦手なことを平均点くらいまではできるようにならないとと
頑張って頑張って、それでも得意な人に追い付かず潰れていく人も
たくさん見てきました。
私は普通の人が簡単にできることがとても難しくできないことが多いのですが
人ができないことが私には簡単にできることもあり
それを認めてくれるまわりがいることでお仕事が成り立っていて本当にありがたいです。
順調な小学、中学を進みますが
私の高校時代は闇です笑
部活もせずに2年生のとき国立理数コースに行ったのが間違いで
数学の中間テスト、期末テスト1年間0点を取り続けたという笑
そんな???と思うでしょ笑
全くわからない、適当に書いても当たらない。
そして追試にも行き忘れるという。。。
もともと算数苦手だったんですが
数学の先生が担任で気持ち悪かったんですよ。
それで一気にやる気ダウンです。
担任の先生が嫌いすぎて学校に行かず、イマイチ友達もできず
好きだった仏教の先生の授業がある曜日だけ行ってました。
そしたら出席日数足りなくなりそうで
毎日帰りの会からでいいから来てと言われて
真に受けて帰りの会からふらっと行ってたという。。。
ひどい高校生活です。
学校に行かず何をしてたかというと暇なので図書館で
生き物の本を読んでました笑
3年生に上がる時は理数系からやっと解放されて
スポーツ特進クラスへ。
クラスのほとんどがスポーツ特待で進学する子ばかり。
そんな中、私が進もうと決めたのは
管理栄養士になるための学びができる大学。
高校3年生、スポーツ特待生ばかりを集めた
受験しない子ばかりのクラスは授業もほぼなく
おそらくクラスで受験したのは私も含めて3人くらい。
勉強モードなど一つもない遊んでばかりのクラスでした。
そんな中、私は受験をしなければならないのですが
決めたのは管理栄養士になれるための学校に行く!!ということ。
第一志望は中村学園大学。
福岡にある管理栄養士になるために学べる学校は当時あと2つほどあったのですが
一番近いという理由で中村を目標にしました。
しかししかし!!
中村学園大学が一番偏差値が高いということが判明。
それでも中村に行きたいとかなり勉強しました。
受験科目は国語、英語、あと一つは数学か化学か生物の中からの選択。
理系はダメなんですけどね、アホな私は
生物って動物のこと??と勘違いし大丈夫やろ!と勉強を始めました。
そうは言っても生き物の本をけっこう読んでたので少しは役に立ってました。
ときおり行われるテストでは
100%無理ですというE判定しかもらったことなく
とうとう受験シーズンを迎えました。
築女は進学率もとっても気になさる学校で
私をどこかに受からせないとと
築女の大学を受けさせられたのですが
太宰府駅に着いてそこから学校までの道のりが
長すぎて、こんな学校無理やろ。。
と一気に滑り止めな気持ちも冷めて
名前を書いてほぼ白紙で提出して落ちました。
クラスの子から名前しか書かなくても受かるよ!
と言われてたけど、そんなことはなかったですね笑
そして残り受験した3つの大学
どの試験も答えを埋めたくらいで手応え全くなく。。。
それでも私は運が良いしマークシートだから受かるよねと思ってたら
まさかの補欠1番で中村だけ合格しました♡
さすが私♡♡♡
実力は絶対無理としか言われてなかった中、本当ラッキー。
ついにに中村学園大学に入学!
運の良さで合格したのでまわりのお友達との学力は
かなり差があって、中村高校からスポーツ推薦で来た子たちにも
完全に及ばずでした。
それでも在学中は学校の授業も1日も休まず勉強もやったし
クリスタルハーモニーというコーラス部にも入って充実の日々。
コンサート前にはレオパレス借りて
みんなで毎晩練習したり
昼間は公園、夜はカラオケボックスでカラオケを使わずに練習したり
タカクラホテルの聖歌隊のバイト行ったり
めちゃくちゃ愉しかったです。
ちなみに私、楽譜よく読めません笑
中学のブラスバンドの時から基本覚える!
という感じでなんとかやっておりました。
たぶん歌が好きというのもあったけど
それ以上に自分のことを信じてくれる仲間
大事だと思ってくれる仲間ができたことが嬉しかったんだと思います。
コーラスって、ただの人の寄せ集めではうまく行かなくって
仲間をどれだけ尊重し合えてるか、心が通じてるかって大事なんですよ。
私が運動に目覚めたのは大学3年の20歳の時。
管理栄養士としての実習で小学校、病院、保健所に行かせてもらいました。
小学校栄養士もやりたい♡と思ったのですが
私たちが卒業の年は採用がないと知り
病院はちょっと違うなぁと感じ
保健所に実習に行ったときにあってた
会社の健康診断でメタボで引っかかった方のための運動指導を見学をした時に
これがやりたい!栄養と運動で健康づくりの仕事がしたい!
と思いその道に進むと決めました。
目指せ!
歌って踊れる管理栄養士!
ということで
早速に保健所の栄養士の先生にどうやったら
あぁいう仕事ができるんですか?
と聞くと学校が違うねぇ。。と
そして、ゼミでは運動生理学の研究してたので
ゼミの先生に聞くも学校が違うねぇ。。
という感じだったのですが
まずはスポーツクラブスポーツクラブへ行ってみよう!と入会すると
保健所などで健康づくり運動教室をしてる先生を見つけまして。
どうやったらなれるんですか?と聞き紹介してもらったのが
今でも企業向けの健康経営のための10分ランチフィットネスの
お仕事をさせてもらっておりますスタジオパラディソです。
すぐに連絡を取りよく分からずに
やったこともなかったエアロビクスのインストラクター養成コースへ入門しました。
大学行きながらのWスクールです。
スムーズに養成コースに入ったものの
それまで運動などしてなかった私には難しく
あとから入った人たちがどんどん卒業していく中
かなり時間をかかって習得をし無事合格。
インストラクターとしてデビューしました。
大学も卒業し、管理栄養士免許も合格し
就職はせずにフリーのフィットネスインストラクターとして活動開始です。
そしてパラディソに通う中で出会ったのが
ピラティスの師匠アンディ先生。
英語しか喋れずコミニュケーションが愉しくて
話して遊んでいるうちちピラティスに誘われ
ぜんぜんよくわからない。。と思いながら受けておりました笑
その当初、日本にピラティスは入ってきておらず
ピラティスが何かもわからずに、ゆるい動きだなぁ
ぜんぜん効いてる感じしないけど。。。
くらいにしか思っていなかったです。
ピラティスって初めは本当に難しいですよね。
それでも、エアロビクスで腰を痛めていた私は
アンディ先生のピラティスに何度も救われ
毎週マニュアルセラピーをしてもらい復活できました
そしてピラティスすごい!!と思ってたときに
ピラティスを教える道に進まないか
私が学ぶことでエアロビクスやダンスでケガをしている人のケアや
ケガしない身体の使い方を教えることができるよ
と声をかけてもらい即決め。
養成コースの曜日にやってたレッスンも辞めて
コースに入る準備のためにレッスンを週3回ほど受けたりと一気に生活が変わりました。
今考えると、やりたいと思ったことにできるできないの前に
どうやったらできるのかな、こうするといいよというアドバイスに
素直な私だったので進みたい道を歩むことができたように思います。
時間が。。。お金が。。。と悩んでいるうちに人生動ける時間は終わりますからね。
ピラティスとの出会い、師匠アンディ先生との出会いは
本当偶然でたまたま同じとこにいたという理由なのですが
ピラティスは身体が楽になって好き
私もこれ教えたいと決めれて本当ラッキーでした。
日本にピラティススタジオは他になければ
養成コースもそこしかないから選択肢もなく
一番良いものを迷いなく決めることができたのも良かったです。
養成コース中はスタジオに行かない日はないくらい毎日レッスンを受けて
家に行ってスタジオに帰るというくらい練習してました。
が、ビギナーマット養成コース卒業のテスト。
落とすためのテストではないのですが
夜アンディ先生から電話をもらい
『今は先に進まない方がいい
もう一回、次のビギナーコースを受けれるか』と。
わかってないままに先に進んでも、もっとわからなくなるし
早く先生になることよりも
もう一回、勉強して身体が感じれるようになってから
3ヶ月遅く先生になったとしても、そっちの方が良い先生になれる
まわり道をすれば、まっすぐ進んだ人が見えなかった世界を見れる
というようなことを言われ
一緒に学んだ仲間は先に進み
私は次のコースでもう一回学ぶことになりました。
今考えると、その時はぜんぜんわかってなかったし
そうやって私のためのことを考えてもらってたのは本当ありがたかったです。
2回目の養成コースでは
よくわからなかったことがもっともっとわかるようになり
より深く広く身体も頭も理解が深まりました。
エアロビクスの時もそうだったけど
私は人よりもできるようになるまでが3倍以上に時間がかかるし
上手くできないから人よりも2倍も3倍も練習しないといけない。
でもコツコツとやってたら
まわりが、あまり学ばなかったり、稼げなくて辞めたりしていくうちに
いつの間にかできるようになって最終的には生き残れる。
大器晩成型だとわかったので
何を学ぶにしても、すぐに上手くできなくても
私はあとからできるようになるから安心して
コツコツやろう!と焦ることもなく
早いうちに気づいて良かったです。
養成コースの再受講は10回以上したし
アンディ先生が学んだマリジョセ先生の養成コースも参加したし
学びには2000万くらいは余裕で使ったと思います。
養成コース卒業の時に私が学びを止めると私の生徒さんも止まるよ
とアンディ先生から始めに言われていました。
そしてアンディ先生がいつも学び、進む姿を見せてもらってたので
私もずっと学び続けてこれたしチャレンジし続けることができました。
パラディソのオーナーのはーなも未だにチャレンジしてるし
前を進み切り拓いてくださる先輩がいるのは
本当にありがたい状態です。
2008年9月5日福岡市早良区賀茂で
ピラティススタジオKANONをオープンしました。
それまでは、もともと行ってたスポーツクラブでピラティスレッスンを担当したり
スイミングスクールや体育館、公民館サークル、企業でのレッスンなど
出張型で活動をしていましたが
スポーツクラブバブル崩壊したあたりの時期
仕事に行ったらクラブがなくなってた!
来月閉館するからと週7本のクラスがなくなったなど、これはまずすぎる!
安定そうだからと働きに行ってばかりだと逆に不安定だということに気づき
スポーツクラブに頼らない仕事をしたい
自分の生徒さんをまずはつくろう!
そもそも出張型は
移動が大変すぎるし、道具も揃えても持ち運べない
と!スタジオを作りました。
だいぶ気弱だったので誰1人生徒さんが来なかったとしても運営できる家賃の
小さな小さなスタジオでしたよ。
それでもコンクリート打ちっぱなしで天井の高いロフトがあり
1階部分からは天井が2階まである感じなので開放感があり
何よりカッコ良くて気に入っていました。
ときどき独立しようと思うと相談を受けますが
始めから大きくせずに無理しない範囲でスタートして
お客さん増えたらステップアップしていけばよいと思います。
生徒さんって技術の部分は大前提だけど
それよりも、この人が好き、会いに来たいと思われないと
生徒さん続かないです。
前のスタジオをオープンして4年
小さなスタジオだったので
マット2枚引いたらいっぱいいっぱい
生徒さんも増えて、このままやっていったときに
これくらいまで生徒さん増えるなぁという天井が見えた時
それでは満足できないと移転を決めました。
前のスタジオの時にお世話になっていた
エステート芳賀さんにまた探すのをお手伝いしてもらい
なんとエステート芳賀ビルの2階をお借りできることになるというラッキーでした。
前のスタジオからは全員が新しいスタジオに通っていただき嬉しかったです。
スタジオ移転後、3年後にはリフォーマー、バレル、トラピーズテーブルも購入し
マシンレッスンはとっても人気になりました。
といってもまだまだピラティスは流行ってもなく
本当一部の方が何かのきっかけで見つけてくれたり
来てる方のご紹介だったりで
生徒さん増えずに悩んだりもしました。
けど、そんな時間あったから
こういうブログを書いたらこういう生徒さん来たとか
こういう発信を続けたらGoogleアナリティクスが上がったとか
ディスプリクションをこう変えたらこんな生徒さん来たなど
検証作業を地道にやってきたので
ネットでの集客にもすごく詳しくなったし
個人スタジオの作り方もわかるようになりました。
誰にも習わずに、トライして検証して
調べてはトライしてと、やれるだけのことを
遠回りしながらやってきたので
作業能力やスピードも上がり
何を大事にながら何を目的として進むのかはっきりとわかり
イメージしたことをカタチにしていく
ということが日常となりました。
管理栄養士としての仕事も少しずつしながら
大学の時に目指した栄養と運動で健康づくりの仕事も
叶ってきたように思います。
コロナが始まる前の年
アメリカへの解剖実習に参加したときのこと
そこで出会ったコトー先生
同じ班で、行きも帰りも偶然に隣というだったシエロ。
本名、江口くん。。。笑
コトー先生のことがすごいすごいと
私に力説するもんで。
コトー先生は班は違っても何か気になり
チラチラ見ていたら本当おもしろい方で
整体習うならコトー先生に学びたい
その時に決めておりました。
私は何か習うなら本当にとことんだし
お付き合いは10年以上になるのわかってるから
学ぶなら本物、そして人という部分で尊敬できるかが大事な基準です。
コトー先生とはアメリカではそんなにお話ししてないですが
この人に学びたいと決まるオーラがありました。
整体はアンディ先生からも良い手をしてるから
セラピー学ぶといいと言ってもらってたり
いろいろな方から整体学ぶといいよとアドバイスもらってたので
ずっと学びたいと思っていたので良い先生見つかって嬉しかったです。
コロナ真っ最中、県をまたぐ移動はダメだと言われていましたが
毎月毎月大阪に通って
あたまの整体や関節、筋肉など今でも深めてきました。
アンディ先生のマニュアルセラピーも1年かけて学び
施術は私にとって大事なアイテムのひとつに。
レッスンに来た生徒さんが
今日はここが痛い、気になる、疲れてるから動きたくない
そんな時でも
1時間のうち半分を整体して半分をピラティスに
今日は1時間整体にしましょうなど
柔軟に対応できるようになりました。
首が痛い、腰がきつい、身体がだるい
そういう方へも満足してもらってます。
ピラティスと整体とダブル枠で予約してくださる方もいらっしゃいますし
新しくピラティスと整体、他のボディワークや施術も組み合わせて
目的に合わせたオーダーメイドなプレミアムレッスンもできました(^^)
これからの10年は整体をさらに極めたいと思ってます。
バキバキしない、眠るほどの優しいソフトなタッチなのに
身体が本当に変わるので試してみてくださいね。
ピラティス教え始めて20年ほど
自分が学び、経験してきたことを残していきたい
と感じるようになってきたころ
アンディ先生より養成コースを教える
エデュケーターという道へ招待してもらいました。
私が長く学んで来た中で、たくさんの勘違いや
失敗、悩み、苦労したことなどが
これから学びを始める先生たちへの学びにもなる
私が20年かかったことを、おそらく5年くらいで到達できるし
そうすれば人生の中でもっともっと学べる時間があって良い先生になれる
そう思い指導者育成の道へと進みました。
私が養成コース受講してた頃はアンディ先生と
言葉もお互いよくわからないし
だからといってスマホやパソコンもなく
言葉の意味を調べるのも辞書。。。笑
もちろんピラティスの本やYouTube
情報は皆無だし
動画や写真を撮るということもできなかったので
その時間、その時間が必死という状況。
今は3Dで身体を学べるアプリがあったり情報があったりと
もっともっと学びやすい環境になりました。
養成コースはガッツリ先生になる!!という方から
まずは自分のために学んで自分が良くなりたい
そしてできたら教えてみたい♡
看護師さんや薬剤師さん理学療法士さんが独立開業して身体を整えるサロンしたい
というようないろいろな方が学ばれています。
ピラティス養成コースは自分のためにもなって
自分のまわりの人のためにもなります。
手に職をつけて働き方を変えたい
いつかは自分で仕事をやってみたい
という方にも◎です。
私が20年以上、信じて続けて来て
未だに学びがあっておもしろいと思える
自分の身体も心も今が最高と思える状態へ整えることができる
ピラティスを伝えることができるのは
私にとってもとても愉しいこと。
日々学び、練習し、考えて
これからピラティスを伝えていきたいという新しい先生たちへ
自分の持ってるもの全て出してサポートしていくので
私にしかできない養成コースをお伝えしています。
運動が苦手でも、こういった学びが初めてでも大丈夫なので
安心して門を叩いてみてくださいね。
プレイヤーとしてもまだまだやっていくので
私のレッスンを受けたい方も募集中です♡
小さい頃からのマイストーリーをお読みいただきありがとうございました。
昔からなんでもスムーズにできる方ではない私
それでも自分ができること、やりたいことに真っ直ぐに
まわりからのアドバイスを素直に聞き
コツコツと自分が活かせることを見つけてきました。
お察しの通り、私はできないことがめちゃくちゃ多く
人に頼らないと大変なことになるくらいです。
できないことが多い分、その道に進むと決めた身体のことに対して
諦めずにやり抜き、礎を築きたいと思っております。
これからも新しいプロジェクトを創造してカタチ作っていきながら
チャレンジを続けていくので愉しみにしていてくださいね。
スタジオでも人気のフットローラー!
ピラティスの前はテニスボールで
足裏のリリースを必須でやっていただいていますが
私は自分のリリースはフットローラーを使ってます。
フットローラーの良いところは
その形から足裏全体にまんべんなく当てることができる!というところ
めちゃくちゃ気持ちがいいんです♡
もともとはバレエダンサーさんが使ってる
アイテムだそうですよ。
もう買った方も多いと思いますが
どこから買うかわからんやった!という方は
こちらから買えます(^^)
1家に1本フットローラー♡
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10回にわたる私のマイストーリー。
始めからスムーズにいった方ではないからこそ
今できることを一生懸命やるだけ。
不得意なことは本当にできないので頼らせてもらいながら
毎日を愉しんでおります。
これを読めば私もできるかも!挑戦できるかも!
と思えるはずなのでお時間ある時、読んでみてくださいね。
私のマイストーリー
ピラティス教え始めて20年ほど
自分が学び、経験してきたことを残していきたい
と感じるようになってきたころ
アンディ先生より養成コースを教える
エデュケーターという道へ招待してもらいました。
私が長く学んで来た中で、たくさんの勘違いや
失敗、悩み、苦労したことなどが
これから学びを始める先生たちへの学びにもなる
私が20年かかったことを、おそらく5年くらいで到達できるし
そうすれば人生の中でもっともっと学べる時間があって良い先生になれる
そう思い指導者育成の道へと進みました。
私が養成コース受講してた頃はアンディ先生と
言葉もお互いよくわからないし
だからといってスマホやパソコンもなく
言葉の意味を調べるのも辞書。。。笑
もちろんピラティスの本やYouTube
情報は皆無だし
動画や写真を撮るということもできなかったので
その時間、その時間が必死という状況。
今は3Dで身体を学べるアプリがあったり情報があったりと
もっともっと学びやすい環境になりました。
養成コースはガッツリ先生になる!!という方から
まずは自分のために学んで自分が良くなりたい
そしてできたら教えてみたい♡
看護師さんや薬剤師さん理学療法士さんが独立開業して身体を整えるサロンしたい
というようないろいろな方が学ばれています。
ピラティス養成コースは自分のためにもなって
自分のまわりの人のためにもなります。
手に職をつけて働き方を変えたい
いつかは自分で仕事をやってみたい
という方にも◎です。
私が20年以上、信じて続けて来て
未だに学びがあっておもしろいと思える
自分の身体も心も今が最高と思える状態へ整えることができる
ピラティスを伝えることができるのは
私にとってもとても愉しいこと。
日々学び、練習し、考えて
これからピラティスを伝えていきたいという新しい先生たちへ
自分の持ってるもの全て出してサポートしていくので
私にしかできない養成コースをお伝えしています。
運動が苦手でも、こういった学びが初めてでも大丈夫なので
安心して門を叩いてみてくださいね。
プレイヤーとしてもまだまだやっていくので
私のレッスンを受けたい方も募集中です♡
10回に渡るマイストーリーをお読みいただきありがとうございました。
小さい頃からなんでもスムーズにできる方ではない私
それでも自分ができること、やりたいことに真っ直ぐに
まわりからのアドバイスを素直に聞き
コツコツと自分が活かせることを見つけてきました。
お察しの通り、私はできないことがめちゃくちゃ多く
人に頼らないと大変なことになるくらいです。
できないことが多い分、その道に進むと決めた身体のことに対して
諦めずにやり抜き、礎を築きたいと思っております。
これからも新しいプロジェクトを創造してカタチ作っていきながら
チャレンジを続けていくので愉しみにしていてくださいね。
コロナが始まる前の年
アメリカへの解剖実習に参加したときのこと
そこで出会ったコトー先生
同じ班で、行きも帰りも偶然に隣というだったシエロ。
本名、江口くん。。。笑
コトー先生のことがすごいすごいと
私に力説するもんで。
コトー先生は班は違っても何か気になり
チラチラ見ていたら本当おもしろい方で
整体習うならコトー先生に学びたい
その時に決めておりました。
私は何か習うなら本当にとことんだし
お付き合いは10年以上になるのわかってるから
学ぶなら本物、そして人という部分で尊敬できるかが大事な基準です。
コトー先生とはアメリカではそんなにお話ししてないですが
この人に学びたいと決まるオーラがありました。
整体はアンディ先生からも良い手をしてるから
セラピー学ぶといいと言ってもらってたり
いろいろな方から整体学ぶといいよとアドバイスもらってたので
ずっと学びたいと思っていたので良い先生見つかって嬉しかったです。
コロナ真っ最中、県をまたぐ移動はダメだと言われていましたが
毎月毎月大阪に通って
あたまの整体や関節、筋肉など今でも深めてきました。
アンディ先生のマニュアルセラピーも1年かけて学び
施術は私にとって大事なアイテムのひとつに。
レッスンに来た生徒さんが
今日はここが痛い、気になる、疲れてるから動きたくない
そんな時でも
1時間のうち半分を整体して半分をピラティスに
今日は1時間整体にしましょうなど
柔軟に対応できるようになりました。
首が痛い、腰がきつい、身体がだるい
そういう方へも満足してもらってます。
ピラティスと整体とダブル枠で予約してくださる方もいらっしゃいますし
新しくピラティスと整体、他のボディワークや施術も組み合わせて
目的に合わせたオーダーメイドなプレミアムレッスンもできました(^^)
これからの10年は整体をさらに極めたいと思ってます。
バキバキしない、眠るほどの優しいソフトなタッチなのに
身体が本当に変わるので試してみてくださいね。
前のスタジオをオープンして4年
小さなスタジオだったので
マット2枚引いたらいっぱいいっぱい
生徒さんも増えて、このままやっていったときに
これくらいまで生徒さん増えるなぁという天井が見えた時
それでは満足できないと移転を決めました。
前のスタジオの時にお世話になっていた
エステート芳賀さんにまた探すのをお手伝いしてもらい
なんとエステート芳賀ビルの2階をお借りできることになるというラッキーでした。
前のスタジオからは全員が新しいスタジオに通っていただき嬉しかったです。
スタジオ移転後、3年後にはリフォーマー、バレル、トラピーズテーブルも購入し
マシンレッスンはとっても人気になりました。
といってもまだまだピラティスは流行ってもなく
本当一部の方が何かのきっかけで見つけてくれたり
来てる方のご紹介だったりで
生徒さん増えずに悩んだりもしました。
けど、そんな時間あったから
こういうブログを書いたらこういう生徒さん来たとか
こういう発信を続けたらGoogleアナリティクスが上がったとか
ディスプリクションをこう変えたらこんな生徒さん来たなど
検証作業を地道にやってきたので
ネットでの集客にもすごく詳しくなったし
個人スタジオの作り方もわかるようになりました。
誰にも習わずに、トライして検証して
調べてはトライしてと、やれるだけのことを
遠回りしながらやってきたので
作業能力やスピードも上がり
何を大事にながら何を目的として進むのかはっきりとわかり
イメージしたことをカタチにしていく
ということが日常となりました。
管理栄養士としての仕事も少しずつしながら
大学の時に目指した栄養と運動で健康づくりの仕事も
叶ってきたように思います。
2008年9月5日福岡市早良区賀茂で
ピラティススタジオKANONをオープンしました。
それまでは、もともと行ってたスポーツクラブでピラティスレッスンを担当したり
スイミングスクールや体育館、公民館サークル、企業でのレッスンなど
出張型で活動をしていましたが
スポーツクラブバブル崩壊したあたりの時期
仕事に行ったらクラブがなくなってた!
来月閉館するからと週7本のクラスがなくなったなど、これはまずすぎる!
安定そうだからと働きに行ってばかりだと逆に不安定だということに気づき
スポーツクラブに頼らない仕事をしたい
自分の生徒さんをまずはつくろう!
そもそも出張型は
移動が大変すぎるし、道具も揃えても持ち運べない
と!スタジオを作りました。
だいぶ気弱だったので誰1人生徒さんが来なかったとしても運営できる家賃の
小さな小さなスタジオでしたよ。
それでもコンクリート打ちっぱなしで天井の高いロフトがあり
1階部分からは天井が2階まである感じなので開放感があり
何よりカッコ良くて気に入っていました。
ときどき独立しようと思うと相談を受けますが
始めから大きくせずに無理しない範囲でスタートして
お客さん増えたらステップアップしていけばよいと思います。
生徒さんって技術の部分は大前提だけど
それよりも、この人が好き、会いに来たいと思われないと
生徒さん続かないです。
ピラティスとの出会い、師匠アンディ先生との出会いは
本当偶然でたまたま同じとこにいたという理由なのですが
ピラティスは身体が楽になって好き
私もこれ教えたいと決めれて本当ラッキーでした。
日本にピラティススタジオは他になければ
養成コースもそこしかないから選択肢もなく
一番良いものを迷いなく決めることができたのも良かったです。
養成コース中はスタジオに行かない日はないくらい毎日レッスンを受けて
家に行ってスタジオに帰るというくらい練習してました。
が、ビギナーマット養成コース卒業のテスト。
落とすためのテストではないのですが
夜アンディ先生から電話をもらい
『今は先に進まない方がいい
もう一回、次のビギナーコースを受けれるか』と。
わかってないままに先に進んでも、もっとわからなくなるし
早く先生になることよりも
もう一回、勉強して身体が感じれるようになってから
3ヶ月遅く先生になったとしても、そっちの方が良い先生になれる
まわり道をすれば、まっすぐ進んだ人が見えなかった世界を見れる
というようなことを言われ
一緒に学んだ仲間は先に進み
私は次のコースでもう一回学ぶことになりました。
今考えると、その時はぜんぜんわかってなかったし
そうやって私のためのことを考えてもらってたのは本当ありがたかったです。
2回目の養成コースでは
よくわからなかったことがもっともっとわかるようになり
より深く広く身体も頭も理解が深まりました。
エアロビクスの時もそうだったけど
私は人よりもできるようになるまでが3倍以上に時間がかかるし
上手くできないから人よりも2倍も3倍も練習しないといけない。
でもコツコツとやってたら
まわりが、あまり学ばなかったり、稼げなくて辞めたりしていくうちに
いつの間にかできるようになって最終的には生き残れる。
大器晩成型だとわかったので
何を学ぶにしても、すぐに上手くできなくても
私はあとからできるようになるから安心して
コツコツやろう!と焦ることもなく
早いうちに気づいて良かったです。
養成コースの再受講は10回以上したし
アンディ先生が学んだマリジョセ先生の養成コースも参加したし
学びには2000万くらいは余裕で使ったと思います。
養成コース卒業の時に私が学びを止めると私の生徒さんも止まるよ
とアンディ先生から始めに言われていました。
そしてアンディ先生がいつも学び、進む姿を見せてもらってたので
私もずっと学び続けてこれたしチャレンジし続けることができました。
パラディソのオーナーのはーなも未だにチャレンジしてるし
前を進み切り拓いてくださる先輩がいるのは
本当にありがたい状態です。
運の良さで合格したのでまわりのお友達との学力は
かなり差があって、中村高校からスポーツ推薦で来た子たちにも
完全に及ばずでした。
それでも在学中は学校の授業も1日も休まず勉強もやったし
クリスタルハーモニーというコーラス部にも入って充実の日々。
コンサート前にはレオパレス借りて
みんなで毎晩練習したり
昼間は公園、夜はカラオケボックスでカラオケを使わずに練習したり
タカクラホテルの聖歌隊のバイト行ったり
めちゃくちゃ愉しかったです。
ちなみに私、楽譜よく読めません笑
中学のブラスバンドの時から基本覚える!
という感じでなんとかやっておりました。
たぶん歌が好きというのもあったけど
それ以上に自分のことを信じてくれる仲間
大事だと思ってくれる仲間ができたことが嬉しかったんだと思います。
コーラスって、ただの人の寄せ集めではうまく行かなくって
仲間をどれだけ尊重し合えてるか、心が通じてるかって大事なんですよ。
私が運動に目覚めたのは大学3年の20歳の時。
管理栄養士としての実習で小学校、病院、保健所に行かせてもらいました。
小学校栄養士もやりたい♡と思ったのですが
私たちが卒業の年は採用がないと知り
病院はちょっと違うなぁと感じ
保健所に実習に行ったときにあってた
会社の健康診断でメタボで引っかかった方のための運動指導を見学をした時に
これがやりたい!栄養と運動で健康づくりの仕事がしたい!
と思いその道に進むと決めました。
目指せ!
歌って踊れる管理栄養士!
ということで
早速に保健所の栄養士の先生にどうやったら
あぁいう仕事ができるんですか?
と聞くと学校が違うねぇ。。と
そして、ゼミでは運動生理学の研究してたので
ゼミの先生に聞くも学校が違うねぇ。。
という感じだったのですが
まずはスポーツクラブスポーツクラブへ行ってみよう!と入会すると
保健所などで健康づくり運動教室をしてる先生を見つけまして。
どうやったらなれるんですか?と聞き紹介してもらったのが
今でも企業向けの健康経営のための10分ランチフィットネスの
お仕事をさせてもらっておりますスタジオパラディソです。
すぐに連絡を取りよく分からずに
やったこともなかったエアロビクスのインストラクター養成コースへ入門しました。
大学行きながらのWスクールです。
スムーズに養成コースに入ったものの
それまで運動などしてなかった私には難しく
あとから入った人たちがどんどん卒業していく中
かなり時間をかかって習得をし無事合格。
インストラクターとしてデビューしました。
大学も卒業し、管理栄養士免許も合格し
就職はせずにフリーのフィットネスインストラクターとして活動開始です。
そしてパラディソに通う中で出会ったのが
ピラティスの師匠アンディ先生。
英語しか喋れずコミニュケーションが愉しくて
話して遊んでいるうちちピラティスに誘われ
ぜんぜんよくわからない。。と思いながら受けておりました笑
その当初、日本にピラティスは入ってきておらず
ピラティスが何かもわからずに、ゆるい動きだなぁ
ぜんぜん効いてる感じしないけど。。。
くらいにしか思っていなかったです。
ピラティスって初めは本当に難しいですよね。
それでも、エアロビクスで腰を痛めていた私は
アンディ先生のピラティスに何度も救われ
毎週マニュアルセラピーをしてもらい復活できました
そしてピラティスすごい!!と思ってたときに
ピラティスを教える道に進まないか
私が学ぶことでエアロビクスやダンスでケガをしている人のケアや
ケガしない身体の使い方を教えることができるよ
と声をかけてもらい即決め。
養成コースの曜日にやってたレッスンも辞めて
コースに入る準備のためにレッスンを週3回ほど受けたりと一気に生活が変わりました。
今考えると、やりたいと思ったことにできるできないの前に
どうやったらできるのかな、こうするといいよというアドバイスに
素直な私だったので進みたい道を歩むことができたように思います。
時間が。。。お金が。。。と悩んでいるうちに人生動ける時間は終わりますからね。
高校3年生、スポーツ特待生ばかりを集めた
受験しない子ばかりのクラスは授業もほぼなく
おそらくクラスで受験したのは私も含めて3人くらい。
勉強モードなど一つもない遊んでばかりのクラスでした。
そんな中、私は受験をしなければならないのですが
決めたのは管理栄養士になれるための学校に行く!!ということ。
第一志望は中村学園大学。
福岡にある管理栄養士になるために学べる学校は当時あと2つほどあったのですが
一番近いという理由で中村を目標にしました。
しかししかし!!
中村学園大学が一番偏差値が高いということが判明。
それでも中村に行きたいとかなり勉強しました。
受験科目は国語、英語、あと一つは数学か化学か生物の中からの選択。
理系はダメなんですけどね、アホな私は
生物って動物のこと??と勘違いし大丈夫やろ!と勉強を始めました。
そうは言っても生き物の本をけっこう読んでたので少しは役に立ってました。
ときおり行われるテストでは
100%無理ですというE判定しかもらったことなく
とうとう受験シーズンを迎えました。
築女は進学率もとっても気になさる学校で
私をどこかに受からせないとと
築女の大学を受けさせられたのですが
太宰府駅に着いてそこから学校までの道のりが
長すぎて、こんな学校無理やろ。。
と一気に滑り止めな気持ちも冷めて
名前を書いてほぼ白紙で提出して落ちました。
クラスの子から名前しか書かなくても受かるよ!
と言われてたけど、そんなことはなかったですね笑
そして残り受験した3つの大学
どの試験も答えを埋めたくらいで手応え全くなく。。。
それでも私は運が良いしマークシートだから受かるよねと思ってたら
まさかの補欠1番で中村だけ合格しました♡
さすが私♡♡♡
実力は絶対無理としか言われてなかった中、本当ラッキー。